思考と表現の日々

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JR大阪駅に祈祷室があった

www.westjr.co.jp

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場所は大阪駅の1階。阪神百貨店と向かい合う横断歩道前。大阪ステーションシティの一番南側です。(グランヴィアよりも大丸よりも南)

 世界からやって来る方に対し、男女別の祈祷室を設置。しかし、事前に3階の大阪ステーションシティインフォメーションに申し出てからの利用になり、いささか不便です。

osakastationcity.com


 あと、表示言語の種類をイスラム圏の方に配慮したものにして欲しいですね。

【成人向け】承認欲求と共依存とサドマゾヒズムと

 今回は、成人向けの内容です。

 こういう内容ですので、夜になってから一気に書き上げています。そして、朝になって見直すことはしません。ただし、文章のネタ自体は昼間に思いつき、構成は昼間に作っています。

 

 

 「社会的地位の高い人に倒錯した性的嗜好の人が目立つ」と言われます。

どういう心理で彼らはその嗜好に向かうのでしょう。

 

 社会的地位が高いと、高いレベルでの模範的な言動を常に求められます。そして、常に本音と建前が玉虫色のようにひっくり返る世界で、接する人達の言動の真意を探り、己の身を守らねばなりません。そして、彼らは純粋な気持ちで接してくれる人が非常に少ないです。ほめられる場合は大抵がヨイショで、褒める側の私利私欲が働いています。けなされる場合がほとんどです。

 お金と権力があり、庶民が買えないような高価なものが買えたり、夢を計算せずに実行する力を持てますが24時間365日言動を規制され一寸先は闇です。

 

 信用できるものが数字だけになります。お金しか愛せなくなるほど追いつめられます。それこそ札束をラブドールに巻きつけて寝るぐらいの勢いです。

 

 男性でも女性でも、お金を払って「自分の好きなことをしているさまを褒めてくれるプロ」を求めます。キャバクラ嬢やクラブのホステス、ホストなどお金とプロに対する接し方の上手下手で様々なランクの人がつきます。プロの役割を認識し、人として尊重する態度をとれる上流の人の遊びです。

 余談ですが、家族がクラブなどにハマるのを快く思わない人がいます。自然なことですが。逆に、一緒に生活している立場上自分ではできないことをしてくれていると感謝する人もいます。生活していれば、粗相もしますのでそれを叱るのは自然なことです。

 そもそも、自分の好きなことだけしていたい、それでいて常に褒められたいというのは自己本位にも程があります。その矛盾に気づきながらプロと接しているのであれば社会的に成功しつづけるでしょうが、気づいていないならお金が尽きた時が運の尽きで、あとは転落人生真っ逆さまです。

 この辺りにお金を使うのはまだ、人と人とのつながりをまっとうに行おうという意志があります。

 

 さらなる承認欲求のお化けは、性的倒錯に走ります。

 幼児プレイ 男性が幼児の役で女性が母親の役。この時期は無条件に(という幻想)母親から愛され、承認欲求が満たされやすいです。そして、おむつをしてバブーなどと言って閉鎖された空間にいる。社会規範からの開放も果たしています。

 サドマゾヒズムはこれに共依存が加わってきます。お互いがお互いの役割をはたすことで、お互いの存在は認められます。攻撃されていたい思いをしながら心は満たされるという矛盾した感情。すべての自分を拘束するものからの開放。

 

 女性は男性に比べ、深みにはまりにくい傾向があるようです。まずは社会的に高い地位にある女性の絶対数が少ないことがあります。そして、ブランド物の購入やリラクゼーションやエステでチヤホヤされる体験が出きます。(実際のリラクゼーションサロンではあまりに体の状態がひどいと「これはひどいですねー」と言われることがあります)もしくは、外食で「他人が作った食事」を「他人が皿を洗ってくれる」経験をするのも承認欲求を満たします。

 

 脳内にある「過大なる自己承認欲求」のモンスターを銃で撃ち抜けることができれば背徳感あふれることに手を出さなくてもそこそこ満たされるのですが、そのモンスターの眼の奥に認めたくない自分の弱さがあると撃つ前に直視できず倒錯の沼に落ち込んでいきがちです。

 

 まあ、これらのことは法的には問題がないので(合意の上であれば)人間として尊重し合えるならば不問。法に触れること(自己承認欲求を満たすために薬を使用するなど)

 

 自分の好きなことだけして常に褒められたいお子様ならば、自分で起業して人を雇わず自分の食える分だけ稼げばわざわざ人と接する機会を増やさずに済むでしょう。もっと大きくしたいという身をわきまえない言動が自らを苦しく、尊大にし、苦しさから逃れるために人としての感情を失い、倒錯した言動に走らせるのではないかと思うのです。他人による賞賛でしか糧にできないお子様から脱却し、自分で自分を満たしたり、満たされなくても開き直る感性を持つことが心の波風を穏やかにするのではないでしょうか。

 

 

 

投票には相当な量の知識が必要だ

  投票行動の結果に対する責任は、その地域の住民、国民がかぶることになる。しかし、そのことがもとで賠償を求められることはない。

 

 より民主的な社会を作るための投票行動に至るまでに必要な知識は驚くほど多い。

歴史、地理、経済、現状についての把握、多くの住民にとって利益になることは何であるか考えたり、なるべく自分が損しないように考えたり(自分だけが大きく得するとことに着地点を置くのとは違います)

 それを考える能力がないと判断できれば、投票しないという行動について罪に問われることがないのは救いだと思います。勉強や準備をしていなかったのはたしかに問題なんだけど、期限までに知識が身につかなかったことに対して罪に問われる場合、間違った知識での投票行動につながり世の中が悪い方向に向かうリスクが有ります。それを問われず「勉強するんだよ」とただ我が身に対する反省を求められるだけならば次の投票行動に対するハードルも高くならずに済みます。

 勿論、多くの人がそれぞれ自分の頭で考えて「なるべく極端に不幸せになる人が現れず、なるべく多くの人がそこそこ幸せになる方法を考えて」投票したほうが世の中は良い方向に向かう(極端な考え方が中和される)のでしっかり勉強して投票に行くほうがいいです。

贅沢を知るものと知らないもの 己の世界を広げるものと広げない世界で暮らすもの



こちらのつぶやきを見て今回の記事を思いついた。

 「服なんて着られればいい」
 「趣味も取り立ててなくていい」

 こういう発想は、バブル崩壊後のデフレ経済時(20年前から今も続くのですよ)に根付いた思想と思われがちだが、第二次世界大戦の好景気までは庶民は趣味も持たず、日々の生活に追い立てられ、命のバトンを受け渡して死んでいくのが一生だった。別に人類の歴史から見ればその方が当たり前なのだ。

 

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 しかし、趣味やおしゃれや贅沢な味から新しい物が生まれる。既存のものの質が上がる。名もないPB商品の袋ラーメンは、過去にサッポロ一番が努力の末得た技術だったり味だったりする。それが廉価でできるようになって廉価なPB商品に活かされる。PB商品の味は、もしかしたら過去のサッポロ一番の味だったかもしれない。

 

 おしゃれな服はデザインや機能を工夫したがゆえの値段だ。その工夫を次の年にはファストファッションが導入している。

 

 趣味を持つことは、高齢になり認知症になった時にもプラスに働く。先日、高齢者施設に行く機会があり、食堂で話し合いをすることになった。そこにいる入居者の中で一人だけ、ぬりえをしている人がいた。他の入居者はぼんやりとテレビを見ている。ぬりえをしている人が楽しそうに見えた。1人でも楽しめる趣味があれば、認識能の低下が遅くなるという報告もあるし、認知症になりうる遺伝的要因があっても認知症にならないで一生を終えるという報告もある。

 高齢になるまでの人生においても、趣味はプラスに働く。家族、社会の一員、そのた他の人に与えられ認証される役割以外の自分を持つことができる。それだけでも人生にプラスの影響を与える。

 

 ただ、こういう贅沢を知ってしまうと、何らかの事情で趣味付加価値のあるものが得られない状況になった時に不満を感じやすい、だから最初からそういうものを持たないほうがいいという考え方もある。そして、知ること学ぶことの多さに愕然とする必要もなく、到達することの難しさに落ち込むこともない。知らなければ存在しない、という考え方は人をストレスから解放する。

 知らなくても世界は知っている人によって回る。その「知っている人」が私利私欲のみによって動かないと誰が保証できるか。そうなると、不十分ながらも知っておいたほうが良い知識もある。まあ、「知っている人」は「自分だけが大勝ちすることは、周りからの妬みを書い身を滅ぼすからほんの少し得したように見える結果になるよう選ぶ」のですが。

 

 贅沢を知る人と、そうでない人。

それぞれがそれぞれの判断を尊重し非難しあわない世界が妥当なところなんでしょう。

そろそろ便利を少しずつ捨ててみないか

スキーツアーバス事故で娘さんをなくした父親のコメント

通夜のあと報道各社の取材に応じ、用意したコメントを読み上げました。

「(前略)今回の事故については、憤りを禁じ得ませんが、多くの報道を見ていると、今の日本が抱える、偏った労働力の不足や、過度な利益の追求、安全の軽視など、社会問題によって生じた、ひずみによって発生したように思えてなりません。今回の事故については、警察によって原因と責任の追及がなされ、また、行政による旅行業者の問題の洗い出しや、改善が行われることを期待しておりますが、すぐによくなるものではないと思っております。きょうも多くの若者がバスツアーに出かけているでしょう。ぜひ、自分の身は自分で守るということを考えてください。優先順位を間違えないこと、安全は『マスト項目』であり、費用削減は『ウォント項目』であることを冷静に考えてほしいと思います。今回の事故につながったツアーに関して、私たちは娘を信用しきって、内容をほとんど確認せずに参加させてしまいました。あとの祭りにはなりますが、『ツアーがどんな内容か』とか、『ちゃんとシートベルトを締めろよ』とかの声がけをすべきであったと悔いております。親兄弟、おじいちゃんおばあちゃんとして、子どもたちに何が大切なのかを気付けるような声がけをしてほしいと思います。お節介だとか、うざいとか思われるかも知れませんが、年長者の役割のように思っております。1月15日は、私たち家族やほかの遺族にとっては命日になりますが、報道関係者や旅行業者の関係者などにおかれましては、このような事故が起こらないように、毎年、何らかの発信、行動をなすようにしていただければ、今回の事故の犠牲者がみなさんの心の中に生き続け、安全に対する心のたがが緩むことを防げる一助になるのではないかと思っております」。

NHKニュースからなのだが、1週間ぐらいでサーバーから消えてなくなってしまうので、ここに記載します。他の新聞社が掲載していないのですが、非常に素晴らしいコメントなので消えてしまうのはもったいない。

 怒りを禁じ得ない、と正直な感情を述べた上で今後どうあるべきでなおかつ現実的な道筋を話すのもすばらしいです。この方はかなり社会的な立場が高いのだと推測します。感情を述べることでコメント自体に誠実な印象を受けます。そして、最初に読む人の共感を得ることに成功しています。(感情が先走る人に対し効果的)

 規制というのは 客、現場の従業員、経営者など関わる人全てに過重な負担が掛からないようにすることで事業を継続するためのものです。中には、その規制以上に頑張れる人がいます。対し、どう頑張っても規制の上限をクリアできない能力の人もいます。後者の人を就労の現場から追い出すというのは結果的に社会保障の額が増えます。残った人で死に物狂いで働かないといけなくなります。規制以上に働ける人のための方策も必要と考えますが、それは何であるのか現時点では私は思いついていないので書きません。体力的だったり家庭の事情で長く働けない人に対する就労支援をするのがこれから生産年齢人口が減少を続ける日本では現実的な策ではないかと考えます。生産年齢人口が減るということは、働ける人が減るということ。今後、人が集められず淘汰される事業も出てくると思われます。また、店舗の営業時間も短縮される可能性があります。

 

 それがないと心身の健康に影響が出たり死者やけが人が出るものについてはニーズであり、それ以外はウォンツです。ニーズとウォンツは切り分けて考えないといけません。

 価格というのは原価と人件費だけでは成り立ちません。次の設備投資の費用や今ある借金を返すための費用、事業が止まらないための運転資金。それらを含めた額です。利益が出たからといってすぐに経営者が遊ぶ金と考えるのは早合点です。事業をできるだけ長く続けることが最も利益も得られる上に名声も得られます。

自分の給与は高く、仕事は楽であって欲しい。他人には尽くしてもらいたい。それを皆が思っていれば誰も幸せにならないです。目の前の他人も、誰かの親であり誰かの子であり誰かの隣人であり誰かの友人である。そう考えれば目の前の人に優しくなれると思います。「何にもできない!自分だけガマンすればいいんだ!」と反発したくなる場合は、おそらく他人に迷惑をかける事に恐怖を感じていると思います。もしくは自分が特別な存在であると信じ込んでいる人です。

 

 実現できる便利と、非常に無理している便利。既に限界に来ている便利。自分はどれが必要なのか、何が大切なのか自分の言葉で表現し、必要な物ばかりにそぎ落としてはどうでしょうか。自分が何を好きなのか表現することに慣れていない(心のままに表現するよりも相手の気に入る表現をし、あたかも自分がそう思っているように強制していき、何が本音なのかわからなくなる経験をしている人が多いと思います。本音を制限なしに表現できる環境があればかなり幸せになります。j

               

何かを決める時に必要な「本音」と「建前」の「距離」

 物事を話し合いで決める時、あまりに建前だけで決めてしまうと、誰もが納得しないし不満に思う結果になってしまう。

 法律や条約レベルだと個人の本音から大きく離れたものが出来上がって当たり前(国全体世界全体レベルなので関わる人間も多いし、決定するプロセスに直接参加していないので)なのだが、その場合でも最近は郵送はおろかインターネットから携帯電話からでも簡単に通学通勤途中でも意見を投書することはできるので多少は反映されるかもしれないし、何よりも参加したという事実は残る。

 

 もう少し小さな規模の話、例えば職場や家庭や地域の集団の中での決定過程で不満をある程度解消しそこそこ腑に落ちた状態で物事をすすめるにはどうすればいいのか。

 

 意識しておいたほうがいいのは「自分の本音と建前の距離」と「何を優先するのか」「そもそも自分の本音は何なのか」

 相手との関係を気にするあまり、建前論だけで決まった決まり事は有名無実化しやすい。腹の探り合いの結果、傷つけないように見えて全員の関係が悪くなることもある。

 

 よほど独りよがりだったり利益が偏った意見でないかぎり、小出しに(時には全部)本音を出して決まり事がもつ理念や目的とすりあわせたほうが形骸化しにくいし、決定の根拠を共有できているので、状況が変わった場合に改善しやすい。(決定のプロセスも文章化するか時折決定事項を更新して風化させない工夫も必要)

 そうすることで、独善的な人間をあぶり出し、その者と距離を置くことも可能になる。これまた利点。

 

 

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人を褒めると死んじゃう病

 何かと、「このままではダメだ」「まだここができてない」と褒めるよりも先に欠点や今後の課題を指摘する人がいますね。多分、期待からの発言が半分、そして人を褒めると死んじゃう病の人が7割ぐらい居ますね。

 

 なんなんでしょう。人を褒めると自分が下に見られるからでしょうか。

 

 ただし、記事で褒めずに危機感を煽るのは注目を集めて読んでもらうためで、コンサルタントの場合は危機感に煽られた人相手に商売をしようとしている輩ですのでこういう悪徳コンサルタントには頼まないようにしましょう。

 

 相手のある事柄だと、こちらがいくら働きかけても相手に全く関心がなければ見向きもされないのは当たり前で、興味のないことを遮断することで自分の容量を維持するのが人間としての自然な機能なので、相手が振り向いてくれないからといって、自分だけが媚びるような努力する必要はありません。努力するなら正当に自分の技能を伸ばしましょう。

 だから、まだまだと言われて変に萎縮する必要はありません。その人が「人を褒めると死んじゃう病」であることが多いからです。