思考と表現の日々

日々思ったこと感じたこと 手書きだったり写真だったり

カフェにて妄想

先日、カフェに行ったんですよ、カフェに。

 

で、そこで考えたのが下記。

 

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 そうだよなー、こんなクソつまらない店で閉店まで拘束されるのはたまんないだろうなー。しかもいろいろな注文はくるし。客はコーヒー一杯で長居するし。

 

と思ってたら、そんなに高いとは思えないのでした。

 

「お酒飲まないなんて人生損してる」

体質でほとんどお酒飲みません。飲んで気分が悪くなるまでの量が少ないです。お酒飲みながらお茶や水を飲んでトイレにいって薄めたこともあります。

で、タイトルの発言をされることがあるのですが、別に飲まなくても不幸ではありません。もともとお酒が存在しない世界で暮らしていますので。飲まなくても酒の文化や歴史は学べます。

飲み会で勝手に自分の白飯を頼んで夕食会に変えてしまうのはいつものことです。それぐらいのペースでやってたら、飲む人も気を遣わないと思います。

人に飲まして潰すぐらいなら、自分で飲みましょう。嫌いな人を潰すつもりでしたら、呼ばなくていい状況なら呼ばない、呼んでもその人が来られないと思われる日に飲み会を設定する。それでいいじゃないですか。

JR大阪駅に祈祷室があった

www.westjr.co.jp

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場所は大阪駅の1階。阪神百貨店と向かい合う横断歩道前。大阪ステーションシティの一番南側です。(グランヴィアよりも大丸よりも南)

 世界からやって来る方に対し、男女別の祈祷室を設置。しかし、事前に3階の大阪ステーションシティインフォメーションに申し出てからの利用になり、いささか不便です。

osakastationcity.com


 あと、表示言語の種類をイスラム圏の方に配慮したものにして欲しいですね。

【成人向け】承認欲求と共依存とサドマゾヒズムと

 今回は、成人向けの内容です。

 こういう内容ですので、夜になってから一気に書き上げています。そして、朝になって見直すことはしません。ただし、文章のネタ自体は昼間に思いつき、構成は昼間に作っています。

 

 

 「社会的地位の高い人に倒錯した性的嗜好の人が目立つ」と言われます。

どういう心理で彼らはその嗜好に向かうのでしょう。

 

 社会的地位が高いと、高いレベルでの模範的な言動を常に求められます。そして、常に本音と建前が玉虫色のようにひっくり返る世界で、接する人達の言動の真意を探り、己の身を守らねばなりません。そして、彼らは純粋な気持ちで接してくれる人が非常に少ないです。ほめられる場合は大抵がヨイショで、褒める側の私利私欲が働いています。けなされる場合がほとんどです。

 お金と権力があり、庶民が買えないような高価なものが買えたり、夢を計算せずに実行する力を持てますが24時間365日言動を規制され一寸先は闇です。

 

 信用できるものが数字だけになります。お金しか愛せなくなるほど追いつめられます。それこそ札束をラブドールに巻きつけて寝るぐらいの勢いです。

 

 男性でも女性でも、お金を払って「自分の好きなことをしているさまを褒めてくれるプロ」を求めます。キャバクラ嬢やクラブのホステス、ホストなどお金とプロに対する接し方の上手下手で様々なランクの人がつきます。プロの役割を認識し、人として尊重する態度をとれる上流の人の遊びです。

 余談ですが、家族がクラブなどにハマるのを快く思わない人がいます。自然なことですが。逆に、一緒に生活している立場上自分ではできないことをしてくれていると感謝する人もいます。生活していれば、粗相もしますのでそれを叱るのは自然なことです。

 そもそも、自分の好きなことだけしていたい、それでいて常に褒められたいというのは自己本位にも程があります。その矛盾に気づきながらプロと接しているのであれば社会的に成功しつづけるでしょうが、気づいていないならお金が尽きた時が運の尽きで、あとは転落人生真っ逆さまです。

 この辺りにお金を使うのはまだ、人と人とのつながりをまっとうに行おうという意志があります。

 

 さらなる承認欲求のお化けは、性的倒錯に走ります。

 幼児プレイ 男性が幼児の役で女性が母親の役。この時期は無条件に(という幻想)母親から愛され、承認欲求が満たされやすいです。そして、おむつをしてバブーなどと言って閉鎖された空間にいる。社会規範からの開放も果たしています。

 サドマゾヒズムはこれに共依存が加わってきます。お互いがお互いの役割をはたすことで、お互いの存在は認められます。攻撃されていたい思いをしながら心は満たされるという矛盾した感情。すべての自分を拘束するものからの開放。

 

 女性は男性に比べ、深みにはまりにくい傾向があるようです。まずは社会的に高い地位にある女性の絶対数が少ないことがあります。そして、ブランド物の購入やリラクゼーションやエステでチヤホヤされる体験が出きます。(実際のリラクゼーションサロンではあまりに体の状態がひどいと「これはひどいですねー」と言われることがあります)もしくは、外食で「他人が作った食事」を「他人が皿を洗ってくれる」経験をするのも承認欲求を満たします。

 

 脳内にある「過大なる自己承認欲求」のモンスターを銃で撃ち抜けることができれば背徳感あふれることに手を出さなくてもそこそこ満たされるのですが、そのモンスターの眼の奥に認めたくない自分の弱さがあると撃つ前に直視できず倒錯の沼に落ち込んでいきがちです。

 

 まあ、これらのことは法的には問題がないので(合意の上であれば)人間として尊重し合えるならば不問。法に触れること(自己承認欲求を満たすために薬を使用するなど)

 

 自分の好きなことだけして常に褒められたいお子様ならば、自分で起業して人を雇わず自分の食える分だけ稼げばわざわざ人と接する機会を増やさずに済むでしょう。もっと大きくしたいという身をわきまえない言動が自らを苦しく、尊大にし、苦しさから逃れるために人としての感情を失い、倒錯した言動に走らせるのではないかと思うのです。他人による賞賛でしか糧にできないお子様から脱却し、自分で自分を満たしたり、満たされなくても開き直る感性を持つことが心の波風を穏やかにするのではないでしょうか。

 

 

 

投票には相当な量の知識が必要だ

  投票行動の結果に対する責任は、その地域の住民、国民がかぶることになる。しかし、そのことがもとで賠償を求められることはない。

 

 より民主的な社会を作るための投票行動に至るまでに必要な知識は驚くほど多い。

歴史、地理、経済、現状についての把握、多くの住民にとって利益になることは何であるか考えたり、なるべく自分が損しないように考えたり(自分だけが大きく得するとことに着地点を置くのとは違います)

 それを考える能力がないと判断できれば、投票しないという行動について罪に問われることがないのは救いだと思います。勉強や準備をしていなかったのはたしかに問題なんだけど、期限までに知識が身につかなかったことに対して罪に問われる場合、間違った知識での投票行動につながり世の中が悪い方向に向かうリスクが有ります。それを問われず「勉強するんだよ」とただ我が身に対する反省を求められるだけならば次の投票行動に対するハードルも高くならずに済みます。

 勿論、多くの人がそれぞれ自分の頭で考えて「なるべく極端に不幸せになる人が現れず、なるべく多くの人がそこそこ幸せになる方法を考えて」投票したほうが世の中は良い方向に向かう(極端な考え方が中和される)のでしっかり勉強して投票に行くほうがいいです。

贅沢を知るものと知らないもの 己の世界を広げるものと広げない世界で暮らすもの



こちらのつぶやきを見て今回の記事を思いついた。

 「服なんて着られればいい」
 「趣味も取り立ててなくていい」

 こういう発想は、バブル崩壊後のデフレ経済時(20年前から今も続くのですよ)に根付いた思想と思われがちだが、第二次世界大戦の好景気までは庶民は趣味も持たず、日々の生活に追い立てられ、命のバトンを受け渡して死んでいくのが一生だった。別に人類の歴史から見ればその方が当たり前なのだ。

 

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 しかし、趣味やおしゃれや贅沢な味から新しい物が生まれる。既存のものの質が上がる。名もないPB商品の袋ラーメンは、過去にサッポロ一番が努力の末得た技術だったり味だったりする。それが廉価でできるようになって廉価なPB商品に活かされる。PB商品の味は、もしかしたら過去のサッポロ一番の味だったかもしれない。

 

 おしゃれな服はデザインや機能を工夫したがゆえの値段だ。その工夫を次の年にはファストファッションが導入している。

 

 趣味を持つことは、高齢になり認知症になった時にもプラスに働く。先日、高齢者施設に行く機会があり、食堂で話し合いをすることになった。そこにいる入居者の中で一人だけ、ぬりえをしている人がいた。他の入居者はぼんやりとテレビを見ている。ぬりえをしている人が楽しそうに見えた。1人でも楽しめる趣味があれば、認識能の低下が遅くなるという報告もあるし、認知症になりうる遺伝的要因があっても認知症にならないで一生を終えるという報告もある。

 高齢になるまでの人生においても、趣味はプラスに働く。家族、社会の一員、そのた他の人に与えられ認証される役割以外の自分を持つことができる。それだけでも人生にプラスの影響を与える。

 

 ただ、こういう贅沢を知ってしまうと、何らかの事情で趣味付加価値のあるものが得られない状況になった時に不満を感じやすい、だから最初からそういうものを持たないほうがいいという考え方もある。そして、知ること学ぶことの多さに愕然とする必要もなく、到達することの難しさに落ち込むこともない。知らなければ存在しない、という考え方は人をストレスから解放する。

 知らなくても世界は知っている人によって回る。その「知っている人」が私利私欲のみによって動かないと誰が保証できるか。そうなると、不十分ながらも知っておいたほうが良い知識もある。まあ、「知っている人」は「自分だけが大勝ちすることは、周りからの妬みを書い身を滅ぼすからほんの少し得したように見える結果になるよう選ぶ」のですが。

 

 贅沢を知る人と、そうでない人。

それぞれがそれぞれの判断を尊重し非難しあわない世界が妥当なところなんでしょう。