思考を言語化することはよいことが多い。
アイデアをメモにして、その思考からいつでも何度でも別のことを創造することができる。思考を記録した時の自分自身をいつでも思い出せるからだ。
メモはある程度詳細な方がいい。箇条書きだと内容を忘れてしまう。
ボイスレコーダーに記録するのでもいい。いずれにせよ、他人を傷つけるような汚い表現はキーボードで入力するよりは少なくなる。
対し、感情を言語化するのは危険な場合がある。
人間は綺麗事だけで生きてはいない(多くの人がいるので、利害が元で自分の幸せのために他人の不幸を願う気持ちが生まれてしまう)ので、人の汚い面に向きあえて許容できるかどうかが鍵になってくるのではないかと考える。
綺麗な言葉だけをSNSやブログに書いている人がいる。そういう人は
1.汚い感情に向き合えなかった結果、綺麗な言葉で自分を埋めようとしている。
汚い言葉を恐れ、人の失敗に不寛容になり、ルールでがんじがらめの世の中を作る。
思考も怖くなってしまい、新しい物を生み出せない人も出てくる。
2.汚い言葉に向き合った結果、そういう言葉やその元となる感情の存在を認める。
しかし、公の場で言うべき言葉ではないとして、表現を変えたりして綺麗な言葉の比率を高めようとする。心の弱さを許したり、言動に対して指摘したり。汚い言葉を使わないので、指摘となる。
もしかしたら、人工知能の開発は感情を言語化する過程や人工知能が発する感情に人間が向い合う過程でつまずくかもしれません。先日、
ということが起こりました。人間界には公の場で言ってはいけない悪意ある発言をする人間がいます。悪意自体は人間に備わっている感情(逃避だったり、自己の安定化のための感情なので)仕方ないので、いずれ人工知能もこれを学ぶでしょう。それがあまりにも早かったのです。開発者が悪意にどう向き合い、対処するかが今後の人工知能開発の行方に繋がるのではないでしょうか。開発者が1.の反応になると開発そのものが中止となり、作業を行う機械で止まるでしょう。2.のように乗り越えることができれば、より倫理性の高いものができるのではないでしょうか。
いずれにせよ、研究開発者に高い倫理と良心が求められることは明らかです。
人工知能の開発の過程の思考を留めて、何かの著作にすれば、人間の育児に役立つのではないかと想像しました。
自分の中の悪い感情と向き合えなかった結果だったり、感情がブレまくって自己を保てなくなる人も出てくるので、日頃から感情的な人は何も考えず何も見ず何も聞かない何もない世界(もしくは、情報端末から遮断された世界。例えば半世紀前までの一般的な社会。考える暇もなく、ただ作業をするだけの世界)の方が幸せなのかもしれません。
思考を記録するのはいいけど、感情を記録するのは人を選ぶなあ。