思考と表現の日々

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贅沢を知るものと知らないもの 己の世界を広げるものと広げない世界で暮らすもの



こちらのつぶやきを見て今回の記事を思いついた。

 「服なんて着られればいい」
 「趣味も取り立ててなくていい」

 こういう発想は、バブル崩壊後のデフレ経済時(20年前から今も続くのですよ)に根付いた思想と思われがちだが、第二次世界大戦の好景気までは庶民は趣味も持たず、日々の生活に追い立てられ、命のバトンを受け渡して死んでいくのが一生だった。別に人類の歴史から見ればその方が当たり前なのだ。

 

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 しかし、趣味やおしゃれや贅沢な味から新しい物が生まれる。既存のものの質が上がる。名もないPB商品の袋ラーメンは、過去にサッポロ一番が努力の末得た技術だったり味だったりする。それが廉価でできるようになって廉価なPB商品に活かされる。PB商品の味は、もしかしたら過去のサッポロ一番の味だったかもしれない。

 

 おしゃれな服はデザインや機能を工夫したがゆえの値段だ。その工夫を次の年にはファストファッションが導入している。

 

 趣味を持つことは、高齢になり認知症になった時にもプラスに働く。先日、高齢者施設に行く機会があり、食堂で話し合いをすることになった。そこにいる入居者の中で一人だけ、ぬりえをしている人がいた。他の入居者はぼんやりとテレビを見ている。ぬりえをしている人が楽しそうに見えた。1人でも楽しめる趣味があれば、認識能の低下が遅くなるという報告もあるし、認知症になりうる遺伝的要因があっても認知症にならないで一生を終えるという報告もある。

 高齢になるまでの人生においても、趣味はプラスに働く。家族、社会の一員、そのた他の人に与えられ認証される役割以外の自分を持つことができる。それだけでも人生にプラスの影響を与える。

 

 ただ、こういう贅沢を知ってしまうと、何らかの事情で趣味付加価値のあるものが得られない状況になった時に不満を感じやすい、だから最初からそういうものを持たないほうがいいという考え方もある。そして、知ること学ぶことの多さに愕然とする必要もなく、到達することの難しさに落ち込むこともない。知らなければ存在しない、という考え方は人をストレスから解放する。

 知らなくても世界は知っている人によって回る。その「知っている人」が私利私欲のみによって動かないと誰が保証できるか。そうなると、不十分ながらも知っておいたほうが良い知識もある。まあ、「知っている人」は「自分だけが大勝ちすることは、周りからの妬みを書い身を滅ぼすからほんの少し得したように見える結果になるよう選ぶ」のですが。

 

 贅沢を知る人と、そうでない人。

それぞれがそれぞれの判断を尊重し非難しあわない世界が妥当なところなんでしょう。