思考と表現の日々

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悶々とした言葉にしづらい感情と、勝手に思い込んでいる責任の大きさ

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あーっ!自分が延々悶々としていた女性同士の生きづらさをすっきりと言葉にしている!腑に落ちました。

 

 それは正論はわかっているんだけど・・・・

 でも、そうやって進んでしまうのは言葉に出来ない不安があり・・・

 不安なんだけど、言葉にしてしまうと自分に責任が降りかかってくる・・・

 納得行かない、でも、嫌われたくない、矢面に立ちたくない・・・

 できれば、今のままの平和がいい、それが表面的だってのはわかるけど・・・

 

書いててイライラしますね。

 多分、こういう女性は今までの人生経験で矢面に立った経験が少ないのではないかと思います。実際、若いうちに自分のことだけでも責任を取る(もしくはケツまくる)訓練をしていれば、こういう悶々とした気分になりにくいと思います。能動的に自分で責任をとらないでいい立場(矢面に立つことは全部人にやらせながら自分のやりたいように事を運ぶ)に持っていく技術のある人も仰山います。そういう人に比べたら、不器用なんでしょうね。

 

 そういうもやもやしている人が一番望むのは

 揉め事を起こさない

ことなんでしょうね。揉め事を起こさないためにも腹の奥で何を考えているのかをあまり表に出さず、表面的な付き合いをするのでしょう。

嫌われたくない

これは一番大切なんでしょう。

 

 案外、人からは嫌われないものなんですよ。だってヒマじゃないし。

 

 自分の感情の奥底にあるもやもやを言葉にすることですっきりさせる方法もあるんですけど、どうしても自分の嫌な部分が見えてしまう。その嫌な部分と向き合うのに耐えられず、精神的に崩壊してしまいそうな人もいるので、全員が全員通じる方法ではないと考えます。特に、大人になって、子供を持ってから初めて自分と向き合った場合。

ただ、自分が思っていることや考えていることを単語でもいいので言葉にする訓練をしておくことで、意思疎通は遥かに円滑になるので、相当精神的に弱い人以外はおすすめです。ほんまは若いうちに自分と向き合って欲しいのですが。向き合わないことを選んだ人は、知らず知らずのうちに自分の人生の責任をとっているのです。

 感情を言葉にしなければ、その感情はなかったことにできる。そうするために敢えて言葉に変換しないという考えもあります。相手に察してもらうことで自分が責任をとらないで済む(相手がした行動なので)、苦しい思いをしないで済むという考えもあります。それだと、的確に察してもらえるまで自分の願いはかなわない。「わかってもらえない」とその場で何もせずジーっとしているうちに、誰も近寄らなくなる。少なくとも頭を使う機会が人より少なくなりそうな気がします。

 察してほしい、責任を取りたくないと言う人の場合、それでも自分の願いは叶えたいという気持ちのほうが強い場合と、責任を取るぐらいなら願いはかなわなくてもいいとかどうせ願いはかなわないからその願いすら具体的な表現にしない人がいそうです。願いを形にしなければ誰も叶えることができないから、叶わなくても自分は傷つかない・・・書いてて腹が立ってきました。

 

 いずれにせよ、自分の人生の選択の結果を体験するのは自分なのですわ。早い年齢で自分の人生に責任をとっているとはっきりと自覚した経験をしておくほうが、自分で願いを叶えるという最も手間の掛からない方法を得るのではないかと思います。

 

 まあ、管理職の人は女性の自分で人生を決めた経験の乏しさや様々な抑圧からくる悶々とした感情の存在だけを知っておけばいいんじゃないでしょうか。その悶々とした感情を敢えて汲み取るようなことはしないほうがいいかもしれません。汲みとって欲しければ、願いを叶えたければ、言葉にしろと。それで背負う責任は思ったほど大きくはないと。

 

 母親が「デモデモダッテ」「悶々とした感情が・・・」という考えだと物事を決められない組織になりますわな。ここを打開するのが、父親が社会で経験してきた責任とその重さ(もしくは軽さ)を教えることだと思っています。自分一人の行動に対する責任など重くはないこと、責任を自覚して取ったことがない人間ほど他人には大きな責任を追わせることを教えるといいと思います。

 

 なんか最初と最後がつながらない文章になってきた。

今回はこの辺で。