思考と表現の日々

日々思ったこと感じたこと 手書きだったり写真だったり

認識のズレが大きすぎると

 人は多様性を持つので、様々なことで認識のズレが生じる。

 

 1という数字を見て何を思ったかというテーマならば感性がバラバラだ、で済まされる。これが1+1=の答えは何か、という問題だったら答えがバラバラだとどうしようもない。認識を合わせないと先に進まない問題ですら、全く認識を合わせようとしない、合わせられない人がいる。こういうい人がいたら議論にならない。ならば共通する認識を持つであろう事柄を探してみよう、となったら共通するのが「死ぬことは恐怖である」だけだった、ということもあり得る。

 

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 違う国の人だと「死ぬことが恐怖である」ということしか共通した認識でないということも十分ありえる。それが武力に則した外交ということになるのだろう。そもそも細かいことでは分かり合えないから別々の国にして制度もそれぞれの国民に合わせた制度にしたという部分もあるから、考え方の大きく違う人とは必要な時だけ接してあとは礼儀だけしっかりして距離を置いた方がもめごとは起こらないんじゃないかと思う。

 集団的自衛権というのは、もとより武力以外で協調している国同士が、「ワヤしてくる奴が来たら守ってくれ」と協定を結び、協定を結んでいる国同士ではドンパチしない代わりにお互い配慮するという、軍事だけでなくいろいろなところで他の国に対して気を遣わねばならん関係なのだが、それでも1国だけで好き放題できるほど自国でなんでも揃っているわけではない。揃わんからといって強奪せずに取引する貿易で成り立つ方法もあるが、抜き差しならぬ緊張感のある関係だと貿易の取引の時に我田引水と呼べる条件を持ちだしてこない。仲間同士でもワヤ言うなという結びつきである。誰とも結びついてないと安心して暴走してしまう。それを防いで戦争を避けましょうというもの。

 

 非常に残念な話なんだが、人生で「この人とは仲良くなれない」と思った相手が今までいなかった人は非常に少ないと思う。そうなった場合は近くにいていがみ合うのではなく必要以上に接触しないという考えの方がお互いストレスにならないのではないか。しかし、自分が嫌いな相手でも、相手は自分のことを大好きという場合もあるからこれまたややこしいわけで・・・。