思考と表現の日々

日々思ったこと感じたこと 手書きだったり写真だったり

支援と優遇

ディズニーリゾートでは疾患や障害のある人に対して
バリアフリーへの取り組みを行っている。

http://www.tokyodisneyresort.jp/bfree/

アトラクション待ちの間別室で待ってもらう
アトラクションの特徴と利用できる基準を先に伝え、障害や体調によって利用できるものか判断する材料を提供している。事故防止策でもある。

食品アレルギーだけでなく、ベジタリアンや嚥下困難の方に対する対応もできるようだ。

このように基準をはっきりとさせ、皆がそれぞれのできる範囲で楽しむことがバリアフリーだ。

障害があるので、同伴者が必要という意味での割引があるのは真っ当だ。

障害があるので先に並んでいる人を押し退けて利用できるのでは、健康なものがアトラクションに乗れなくなる可能性をはらんでしまう。結果、客が少なくなりこのような支援ができなくなる。

支援はするが、優遇はしない。
この切り分けは非常に大事だ。

二重国籍がアカン理由

連ツイしたのをテキストにしました、

 

政治家の二重国籍がアカンのは「完全に利害が一致する他国は存在しない」「政治家として務める国の国民を守らねばならない立場なのに、国籍を持つもう一つの国に寝返ったりしないか不安要素を持っている」からなんですよね。

特に、今は探そうと思えばいくらでも政治家の過去を誰でも探すことができるのだから、法律の条文の上っ面だけを整えておけばいいというものではなく、法の理念まで理解して、身奇麗にしておけということなんですわ。

自分たち国民を裏切って他の国に支配させようとする政治家を支持するか?

何かしらの傷らしきものがあった時にどう対応するかで、その政治家の危機管理能力を見ているのだと思います。

私は、現在国という形があるのは多様性を守るためだと思っています。こんなに広い世界で様々な思想信条文化がある人達が一つの制度で暮らせるはずがない。国なんてなければ戦争はないと思っているかもしれないけれど、内戦はある。

国という国民の集合体をまとめる人間は、個人の感情に依らず、その国に住む人とその権利を守らねばならない。そのために、国籍は自国でなければならないし、その国の文化(食事やら環境やら全て)に生まれた時から触れて育った人でないといけない。

故に、他の国では「自国籍であること」だけでなく「先祖数代自国籍であること」だったり、「自国に忠誠を誓うこと」など国民と国民の権利を守る立場に対して厳しい条件をつけている。

することの順位

 どうも。することの順位の立て方について記事にしたいと思います。

 

 私は一般的な会社員なので一応は定休日が存在します。休日出勤や残業は最近は少なめです。(前まで結構多かった)ゆえに、一般的な会社員と同じように自分のことは休みの日にまとめてやらないといけません。

 

 大体、休みの前の日までに休みの日のスケジュールを大雑把に立てます。

 1)しなければいけないこと

 2)したいこと

 3)時間があればしておこうと思うこと

 4)既に決まっていること

 

と分かれます。

まずは4)の時間以外で1)をします。

1)で大体時間が埋まれば 3)はやらないことが多いです。

そうでない場合、天気などを見て1)をした後に3)をできるかぎりします。

すると、2)をする暇がありません。もしくは疲れてぐったりしています。

 

 まあ、たいてい突如入る用事がないので比較的まったりしているのでしょう。

 

 これが、子供を育てているお母さんだと

 子供が持ち込む急な用事

 (大抵は前もって予定されているが、子供が用事を言い出さないのでぎりぎりになる)

 

がいつ入るかわからないので、

3)をしておこうと思ってもおぼつかなかったり、

果ては 1)すらもままならないことが積み重なった結果、とにかく用事を先取りしようと考えるようになるのでしょう。

 

 それもあって、子供が早々と用事を済ませた時には先取りする意義を伝えずに「じゃあ、これもやっておこう」と言ってしまいがちなのでしょう。先取りしても楽にならないと考えた子供が用事を済ませなくなる原因です。

 長い目で見れば楽である、ということに気づく子供とそうでない子供に分かれます。後者は、大人になってもギリギリで用事を仕上げてきます。

 大人になってもギリギリで仕上げる子供がお父さんになると、たいていお母さんの家事を増やします。家事分担もすっぽかし(本人は後回しのつもりだが、用事を先取りする妻から見ればすっぽかしに見える)がちなので

 

 ぎりぎりになって用事を言いつける子供の心理としては

大抵は 単純に忘れてた

のですが、

遊びの用事の場合早くから言ったら反対される

こともあるのではないでしょうか(特にある程度大きくなってから)

 

NHKの某番組の報道姿勢とそうぞうりょく

 NHKで放送された貧困特集の内容を巡ってネット上で炎上しています。

 

 いろいろ調べたところ、

NHKの取材と編集がよろしくない」

というところに現在落ち着いています。

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 子供の貧困が起こってしまうのが大人の問題であるのに、子供を出演させてしまっています。このような報道をした場合、どのようになるのか想像力が足りなかったようです。子供を映さず、

 

母親のみのひとり親家計の苦しさを数字や言葉で説明する

子供の生活リズムを崩さないために、日中の仕事しかできない。子供の生活リズムを作ったり親の目がしっかり届くようにと願い出産などで一旦仕事を辞めて、母子家庭になった後に働き出すも子供がいるので働き方に制限があるため収入が低いなど敢えて言葉で説明すると理解が得られた。

 案外、自分の生活とは関連しないものについては人は知らないし創造するのが難しいのです。

 ここでいう貧困とは相対的貧困率です、この数字を用いて説明してもいいですね。相対的貧困状態でも食うに困らない状態を作ると相対的貧困の基準が意味がないものになります。

 

子供には好きなことをさせたいと思い、自分に使う費用を削って子供に使っている

子供には貧困から抜け出て欲しいと考え、落ち着いた環境で学習をさせたいという願いから大学進学を視野にいれて公立の職業高校よりも私立の普通科を選ぶなど。

(実際は、公立の職業高校では金銭的に恵まれない家の子供もいて、親を助けたいという思いからしっかり勉強し大学に進学したり就職し堅実に働いている場合もあります。)

 

お金をかけずに子供の夢を叶える手法を探す時間的精神的余裕が無い

掛け持ちをしている場合もあって、仕事と家事に忙しく子供の主張や社会情勢についてじっくり検討する時間も話し相手も作れない状況になってしまっています。

こういう方向ならば、広く共感と支持を得やすかったと考えます。

 

 知識と相談するコミュニティと時間と余裕の「貧困」が金銭の貧困につながっているようです。

 

 

生活に必要なお金を稼ぐためにパートの掛け持ちをする

→他の人と仕事以外の話をする時間がない

→子供の周りで起こっていることを知らない

→情報源が我が子だけになる

→我が子は正しい!と突き進む

 

時間の余裕があれば、子供の要求に対してお金をかけずに目的を果たすことができるのではないかと考えることができます。

 

むしろこういう記事が貧困に繋がる原因を切り出しています。

www.asahi.com

 この問題を解決するにはおっさんたちによる癒着を解決する必要があるので、非常に難しいです。死人が出るかもしれません。修学旅行について旅行代理店と学校の担当教員との癒着も同様です。「修学旅行 業者 癒着」で検索すると(グーグルで自動的に検索候補に上がってきた)、10年前の放送内容や2ちゃんねるのログが出てくるぐらいですので、相当ややこしい問題です。

 

 得てして、親は子供の願いを叶えたい、叶えないのは親として失格と思い込んでしまいます。親は自分を責める必要はありません。実際は、叶わないことのほうが多いのです。いくらか妥協して、それなりに生きていくことがほとんどです。その部分のケアと啓蒙ができれば親は楽になるかもしれません。

www.facebook.com

この件に関する漫画家の江川達也さんのコメント。

貧困とは貧しいと感じて困ってることと捉えるべきなのかもしれない。
遥かにお金をかけずに絵を描いて生きていても貧しいと思わず困ってない人々は貧困ではない。
どんなに贅沢をしても貧しいと感じて困ってる人々は貧困だ。」

 

心のなかで思っている貧困は誰にも解決できないんですよね。

それと、想像力と創造力が豊かであれば、金銭の貧困はある程度緩和される。

もしかしたら、日本人全体として遊びの部分も無駄と切り捨てた結果、創造力と創造力が貧困になってしまっているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

【映画を見てから見ましょう】「シン・ゴジラ」の感想【ネタバレあり】

今週のお題「映画の夏」

 

 行ってきました。「シン・ゴジラ

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以下、映画の内容を含んだ表現ばかりになるので見ていない人で先入観なく見たい人はスクロールしないようお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とにかく「ゴジラ対日本政府(行政府)」に集中させています。そのため、関係しない箇所の描写はほとんどありません。避難する住民の様子がほとんどなく、

 迫り来るゴジラの迫力と恐怖を表現する

行政が一体となってゴジラから国民を守る役割を果たす

ために登場しているにとどまっています。話がとっ散らばらないにするためですね。

 ゴジラ対日本政府に集中させることで、ゴジラの恐怖もより伝わってきます。

 だから、野党勢力も、執拗に政府を取材するメディアも、ほとんど出てきません。(早朝から声を上げるデモ隊は少しだけ音声で出てきますが、官庁の仕事のリアルさを出すためのエッセンスに過ぎません。中枢で働く人達の苦労を引き出しています。)

 主役はゴジラであることは明白です。ゆえに、日本政府側のキャストも「主役を張る役者ではなく、しっかり脇を固めて自分の役割を果たす役者ばかり揃えています。ここに堺雅人さんや香川照之さんや佐々木蔵之介さんなど主役を張るような方がいたら、その方の色が濃くなって、ゴジラが薄くなってしまいますからね。(もし民放のドラマの系統だったら、彼らを主役として登場させるでしょうきっと)

 作中に登場する政府も官僚も普通の人ですし、事態が進んでいく中で急成長し、しっかり自分の役割を果たしていきます首相は最初は作戦を出すのに躊躇するのですが、「国民を守るため」とだんだん命令を出すのが早くなっていきます。特別優秀な人が登場しないのも今作の特徴です。普段は考え方が違うかもしれないのですが、自分の立場状況を把握し感情を排して自分の業務を淡々と果たしていきます。ストーリーを邪魔しする、事態をかき回す人が誰一人出てこないのでイライラするところがありません。実際にこのようなことがおこれば、必ず誰かがかき回して、日本は崩壊するだろうな、と思っています。

 話の途中で首相など閣僚中枢がゴジラにやられていなくなってしまい、代理の首相が登場するのですが、平泉成さんが演じるのが非常にはまっていました。いかにもダメそうなんだけど、でもするべきことはする。ダメな人と扱われてすべての批判を拾い受ける役割が彼にはあります。そういう人も必要なのです。登場人物の中では珍しく、本音を吐き出すシーンが多いのですが、その本音も場をわきまえています。

 ゴジラを倒すために経口で血液凝固剤が投与されます。血管がどこにあるのかわからない、血管に針が届くかわからないけど口は存在して開いている。その状況だと経口投与が確実です。日本中から薬をかき集め、ゴジラに飲ませるシチュエーションはまさにエヴァヤシマ作戦!この作戦はヤシオリ作戦と呼ばれます。

 ヤシオリ作戦実行時、人間側の主人公である矢口蘭堂(長谷川博己さん)は、隊員に向かって訓示をします。そのことで隊員の士気は上がったと思います。本来はこのような危険を伴う作戦の時は担当大臣は現場に行かないのですが、士気を上げるために敢えて行きます。こういったところも政治家には必要なのでしょう。

 自衛隊が優秀です。作戦をすぐに考えることができ、実行もできます。彼らも自分たちの役割を果たしています。

 外務省も、他国との裏交渉などで暗躍します。こういう状況で、中ロはとっとと核ミサイルでゴジラをやっつけてしまえと主張します。多分、復興の際にすきを突いて支配下に置こうとするでしょう。実際、東京にゴジラが襲撃したら中韓ロシアのスパイが日本中でいろいろするでしょうし、中ロの戦艦が日本の領海に入るのではないかと想像します。

 とにかく全官庁が国を守るために戦っていますが・・・出てこない官庁があります。財務省です。まあ、彼らは役割上有事にはあまり役に立たないのですが・・・。

 

 それにしても、作中の政府は普通の政府なんだろうけど、これ以下の政権があったよなあと溜息をつくのです。あの民主党政権

 

 

 

社会との隔絶

といっても、就業していない人が社会と隔絶しているという話だけではない。

 

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平日の朝や昼間のスーパーは見事に高齢者ばかりだ。通路をカートや歩行器をゆっくり押しながら進んだり、動線をふさぐ形で荷物を置くので他の客や従業員の動きを阻む。

10年前は、もっと高齢者の割合は低かったし円滑に買い物ができた。ゆえに、通路を広げるスーパーが出現している。

おそらく、日中会社で働いている人にはわからない光景であろう。特に、郊外のショッピングモールを利用しているならば。

 

 「男は仕事、女は家庭」に代表される、ひとつのことだけに集中していればいいという考えは、自分の所属する社会以外との隔絶をもたらす。たいていの人は自分の所属しない社会のことには無関心で興味を持とうとしない。ゆえに、お互いが断絶しがちだ。

 

 政治や社会を考える講演会に行くと、きれいにおっさんばかりだ。(女性も増えてきたけど)そこで出る質問も、住んでいる地域のこと(生活から芽生える疑問)ではなく、(遠い国の)政治のことばかり。これでは、住んでいる地域、家族のことしか話題にない配偶者を笑うことはできない。これが、私はいわゆる「愛国者」と呼ばれる人に対する疑問である。生活から芽生える疑問を政治につなげることはできるだろうと思う。

 逆に、社会福祉や医療にかかわる人から政治や国土や世界平和の具体的な話をあまり聞かない。「病人、介護を受ける人、障害を持つ人」を重視せよという声は大きいが、彼らを支援する側とのバランスを考えた発言はほとんど聞かない。これは、支援する側である自分たちが楽したいがために発言しているからととらえられがちだから言わないと思われる。しかし、支援する側が潰れてしまっては、支援される側も共倒れになるので、バランスをもって主張すべきと思う。社会福祉や医療にかかわる人が、利益を得てはいけないと自分で主張してしまうのもよくない。事業の存続のためにお金が必要で、これだけ稼げば具体的に改善できるところはここです、という主張はどんどんするべきだ。

 話がそれてしまった。社会福祉や医療にかかわる人はえてして「福祉の充実」「あたたかい」といった抽象論に走ってしまいがちだ。お金を儲けたり、国土を守ることで自分たちの生活が守られるというのをもっと考慮したらいいと思う。

 

 自分の所属する社会以外のことに関心を持ちにくいのは、仕事が忙しすぎるのと、ほかの人の能力や資源を際限なく使っていいと考えるものが多いからと思う。

 しかし、どうしても自分の所属する社会以外のことには関心を持ちづらいので、働いてもらうなどして所属する社会を増やすしかないのかもしれないと思うが、所属できる社会の数は限られるし、それだと忙しくて他の社会のことに関心は持てないし、どうすればいいのだろうと悩ましい。

 

ここでは「社会」を「社会集団」というニュアンスで書いています。

 

 

なるべく小さな不幸せ

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 思想信条の自由・表現の自由は受け止める側の寛容性と発信する側の良識によって成り立つものであると感じる。このバランスが取れていないとこれらの自由は成立しない。人は自分の権利は最大限許容され、自分が受け入れられる範囲で他人の権利を認める方向に向かいがちである。その根本にあるのが快と不快の感情である。どれだけ理屈を並べても、つまるところは感情に行き着く。感情をそのままむき出しにするのが悪いのではなく、むき出しにして周囲を不快にさせるのが良くないのだ。

 ゆえに、人権の話題になった時「人権をすべて認めよ」というのは首を傾げる。どこまで他人の人権を受け入れられるのか不安だからだ。自分の許容範囲が狭いのか、それとも他人の欲求が深いのかわからないのだ。そのバランスは常に変わっていくので法律などで定める場合はかなりぼんやりした表現になるのであろう。

 許容範囲を広げるには興味関心をもつことと、あまり深入り深読みしないことが肝心なのかもしれないなあと思う。

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