思考と表現の日々

日々思ったこと感じたこと 手書きだったり写真だったり

店舗はショールームになっていく

 先日、アパレル店員の方に関するツイートで

「客に声をかけるのは、買う気のない客に早く帰ってもらうため」

という趣旨のものを見た。

 

 ちなみに自分の場合、

 店に行く時点でその商品にある程度関心がある。その服を着る場面を想定している。

百貨店にあるブランドの場合は、値段がそこそこに高いので買うのを失敗するわけにいかない。ブランドのオンラインストアで画像を見て、おおよその目星をつけておく。しかし、画像だけではわからない情報(大きさ、素材、感触)があるので店舗に向かう。店舗で実際に触って、活用できそうだと思ったら購入する。店舗に行くと、他の商品も見ることができて、より自分にあった商品を発見することができる場合もある。店員の方の提案を聞いて、さらなる活用方法が見つかる場合もある。メンテナンスの方法も聞くことができる。

 

 いきなりオンラインショップで購入しても問題ない商品がある。サイズをあまり気にしないでもいいインナーや靴下だ。「綿100%」とあれば大体の感触はわかる。多少大きくても外に見せる服でもないので気にならない。

 

 店頭でいろいろと触れて、買わずにネットショップで買う人の気持ちもわかる。店員につきまとわれたのが嫌なだけではないのだ。他の人が触れたかもしれない商品を着ることに抵抗があるのだ。ネットショップならば一応は洗ったであろう商品が手に入るのだ。洗ってなくても、誰かが着たという確証はない。その分清潔だ。

 衣服の場合、あらかじめ自分が着たいイメージがある場合もある。その場合は店員の提案は無意味な場合もある。

 いっそ、店舗で直接買う場合はオンラインより展示品特価としてちょっと安くなるとか、ショールームとして割り切ってしまうかにすればいいんじゃないかとも思う。

 

制度を変えるよりも気持ちに応えて欲しい願いがフェミニズムの根底にある

 というツイートを見た。

 

 フェミニズム的な視点で訴える人は、制度を反対しているのではなく、

むしろ、女性の苦労やしんどさを理解して、受容して欲しい。

その苦労に対して、当事者として(妊娠は女性だけでは出来ません)それぞれのパートナーに対して携わって欲しい。と思っているのではないでしょうか。

 それならば、もっと、「○○の制度反対」とか言わずに、もっと具体的に

「事あるごとにありがとうと言おう、むしろ鬱陶しいぐらいに」

「出産後は育休をとって、家での家事を全部やってほしい。妻に出産で受けた体の生姜機を癒やす時間を与えて欲しい。(出産は大きな手術を受けたのと同じ)」とか

「子供が小さいうちは、急に職場の飲み会を入れないで欲しい。一人でお風呂に入れるのは危険(溺れる恐れがあったり、夫が帰るまで妻がお風呂に入れない。特に忘年会は、食べるのものによって胃腸炎の原因になる)」

といった内容にしたら、夫も何をすればいいかわかりやすいし、妻も気持ちが落ち着いていろいろな制度も男女の役割分担も一旦は受け入れて、ちょっとずつ改善していく方向に向かうのではないでしょうか。(こういった世代間で価値観が違うことは、一気に変えるのではなく、昔の価値観を持つ人が気づかないようにこっそり変えていくほうがうまくいきやすい)

 

 その中で、ひとつ個人的に印象的なことを。

 「夫の給与振込口座の通帳とカードを妻に渡す」ということ。これに安心感を持つ人が結構いるようです。

 私自身は、成人が自分のお金を他人に管理されるのはおかしいと考えています。家族のために貯金したり投資することも自分でできるのが大人だと認識しています。自分の欲望のままにお金を使わないのが大人だと思います。

 しかし、家族の世話に追われる機会の多い人にとっては、たとえ貯金や投資をしていても、配偶者が自分のためにお金を使うだけで不安になる人もいます。特に、育児で一旦仕事を辞めていて自分で収入を得られる手段が断たれている人や、現在金銭的に余裕がない人は。

 貯金額のデータや投資成績を見せる方法もありだと思います。その息抜きとして自分のためにお金を使うこともある、そして、配偶者も少しは自分のためにお金を使っていいという話をしたら納得するかもしれない。

 しかし、それだけでは不安。

 給与振込口座とカードを渡すことで、「自分のためにお金を使わない」という確証を得られ安心感を得られる人がかなりいるのではないでしょうか。投資で増やせる人なら口座を預けるよりも実際にお金が貯まると思うのですが。自分も家族のために身を捧げているのだから、あなたも身を捧げてほしいという人には理屈よりも大きな安心感を与えるのでしょう。ほしいのはお金ではなく、配偶者に家族のために身を捧げるという安心感。

 口座を預けたのならば、その運営成績を夫婦で公開するのは当たり前だと思っているんですが、そうしない人もいるんですねえ。「お金が溜まっていると知ったら、家族のこと以外に使われてしまう」と思うのか「使い込みがバレる」と思うのか「私の理想の家庭運営ができない」と思うのかただ単に「男性にお金のことを知られてだめ」と言われたことを守っているのかわかりません。

 

 

 ここまで書いた通り、男女平等を訴えてフェミニズムの思考に賛同する人は実はそれほど多くないのではないでしょうか。

 男性に家庭にもっと関わって欲しい、妻として、母として、自分を抑えていることを認めて欲しい、感謝して欲しい、願わくば自分を解放できる環境を作って欲しい。

 それがなされれば、社会の制度が変わらなくてもあまり気にしない、管理職になれなくたっていい、結婚して名字が変わってもいいのかもしれません。

 

 

 

セクハラにはまっとうな手続きで

 

www.sankei.com

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 個人的な意見としては

最初に報道しなくても、

 抗議→双方が改善案を出す→裁判(いきなり裁判でもいい)

で良かったのではないでしょうか。

 こうすれば、二次被害は防げますし、あったとしても一般の人の目が厳しいでしょう。(省庁やテレビ局に反感を持っていない人からみれば、「裁判しているんだから、関係のない人が立ち入る問題ではない」という判断になる人が多いでしょうし)

 即刻対処すれば。社員を守る会社という印象を与えることもできました。この記者の記者としての人生は大きく変わるでしょうが、メディアの中では生きていけたでしょう。

 これを機に、取引先であっても裁判をしてもいい。匿名でも裁判できるような制度が周知され、泣き寝入りする必要がない問題であることであることが世間に広まれば、今回のような二重のパワハラ(自社からも取材先からも)とセクハラ被害が大きくならなかったのではないでしょうか。

 

 私は、まっとうな手続きを踏める環境を広めることを「MeeToo運動」で広げるべきで、被害をただメディアによる報道で伝えて終わっている現状のMeeToo運動は誰も救っていないと考えています。

 

 

 一部の女性の「女性は弱いから怖くて誰にも言えなくてメディアに録音を出さざるを得なかった」というのも違うなと考えます。録音するまでは支障はないのですが、代理人を立てて裁判するべきでした。

 

 この女性の悲劇は、報道の力を信じすぎていたこと。報道で世の中を変えてやろうと思ったことではないでしょうか。

 その思いが強すぎて、報道する側の権力が強くなりすぎて、反感を持たれていることに気づかなかった。社会問題の重さを判断するのが「メディアの御眼鏡に適うかどうか」になってしまっていた。最初に、抗議してほしいではなく、報道をしてほしいと判断したことが、支持を得られにくい方向に向かってしまった。

 一部報道では「セクハラの見返りに記事をもらう」ような言動をこの記者がしていたとあります。そういうことをして仕事を得るべきではなかった。正々堂々と取材してほしかった。

 いくら報道の力が強いとはいえ、判断するのは多くの国民です。まっとうな手続きを踏んでいれば多くの支持を得られていたと思うのに、メディアに巣食う思考(報道の力で世の中を変えてやろうと思った)のおかげで大きな悲劇になったと思うと残念に思います。

 

補足)ソースがすべて産経なのは、記事が消えないからです(他の会社は1ヶ月ぐらいで消えてしまうので)

 

多分めっちゃ真面目な人なんやろな

 

 ココ最近の違和感について。

 

 いわゆるフェミニストや男女同権運動をしている人、受動喫煙防止対策をしている人、健康を推進している人、リベラル的な物言いをしている人に多い傾向があるなあと感じたことがありまして。

 

 「たぶん、この人らめっちゃ真面目で潔癖な人なんやろな」

 淡水の、汚染されていないような環境でしか暮らせない。世の中には、汚染された環境でしか暮らせない人もいるし、ほどほど暮らせる環境に幅のある人もいます。

 得てして、人は似通った人と接して過ごしますし、「何を言ったか」より「誰が言ったか」に影響を受けやすいです。自分の好きな人が言っていることは正しいと盲目的になりやすいです。特に、知的なものに惹かれ、そうでないものを排除しがちです。

 例えば、メディアに所属する人が反体制になりやすいのも、そういう人が集まっていて、自分の好きな人が体制に常に怒っているからそうなったというものが多いのではないでしょうか。自分に仕事や人生を教えてくれるいい人を怒らせるあの人は悪い人と。 

 

 いっぱい勉強をして、いっぱい物事を考えている人でも、多くの人が疑問に思う言動をする。それはその人の頭が悪いわけではないこともあります。その人の周囲も、同じような考えの人ばかりだと、その考えしか存在しないと誤解しがちです。

 特に、勉強してきた優等生は、感情的になることを良くないと考えがちです。マイナスの感情を過剰に嫌悪しがちです。自分がマイナスの感情を持つことが受け入れがたく、その対象となるものを過剰に嫌悪するように見えます。マイナスの感情もプラスの感情も同じぐらいの価値です。人間の感情です。ただし、マイナスの感情の放出はうまくやらないと他者への攻撃になりやすいです。(プラスの感情も、劣等感を持つ者にとっては傷つけるものになりますが、それは劣等感とどう向き合うかの問題にしたほうが暮らしやすくなります。)

 

 保険医療など、さまざまな環境・境遇の人と接することになる仕事でも「医療は利益をとってはいけない(ではどうやって食べていくのか。どうやって設備を整えるのか)」などと濃い右舷する人がいます。(国民へのウケ狙いで言っている人もいますが、心からそう思っている人もいます。前者のほうが悪質に思いますw)

 

 一般的な企業で働く人は、似たような価値観の人と仕事をするので、自分と同じ考えの人しか存在しないと誤解しがちです。

 これは自然の摂理なので、仕方ないと思ったほうが自然です。ならば、「動物も同じく似たようなものが集まりがちだが、違う考えの人も知らん間に支え合って生きている。色んな人がおって、生物種の存続が果たせている」と認識するのがベターかと思います。

 

 クラスの優等生で、多少友達の間で浮いていても、学校の成績という数字と、先生に褒められるバックボーンがついて自分の正しさを積み上げていったのだろうと推測します。しかし、実際に社会に出たら、それが支持されない。そのことで自信が揺らぎ、傷ついたと感じてしまいます。そこで、実際に攻撃を受けます。そう、幼かった時に注意していた、がさつだと思っていた子が成人となって現れて。

 

 大人になっているので、先生と呼ばれる人はいません。自分で切り開くしかないのです。(そういう意味では、フェミに理解ある男性は必要と考えています。ただし、差別的言動にたいして女性と一緒になって叩くのが役割りではありません。攻撃する側の立場を尊重して、まあまあとなだめる仲裁者であることを願っています。男女差別をする男性は、男性の言うことは聞く可能性が高いです。)

 

 

 

 ほんとうは、子供の頃に「正しさだけで人は生きていない。最終的な目標が悪いことをしないことであるなら、その人が望んで悪い行為をやめる方向に持っていくと効果的ではないか」と教えるべきだった。でも、潔癖な傾向のある人にはそれを理解することが難しい。でも、頭がいい人が多いので、「求める答えはどこで、そのためには何をすればいいのか、について切り分けてくれる人がいればすんなり解決していくかもしれません。問題の切り分けが行われければ、自分が清潔な環境だけで生きるほうが誰も傷つけません。

 

追加)

 もしかしたら、「潔癖」であるがゆえに一気に白にしてしまおうとするのかもしれませんね。マナーは確実に前の世代よりは良くなっています。

 ・自然に失礼な言動をする人

 ・小さい頃の価値観がひっくり返されて、当惑しながらも行動には出ない人

 ・最初から失礼なことはしないという価値観の人

と時代を経るにつれ変わっていっています。それを待つのがいい塩梅なのではないでしょうか。

 

 

 もしかしたら、人と人との仲介をやる人工知能が産まれることが、人間を平和にする方法かもしれません。人間はお互いの好きな人とだけ接すればいい。AIとだけ暮らす人生を選んでもいい。

 

 大人になったら

 清濁併せ呑む

 感覚が必須やなあと思った次第。

 

  医療者も、「健康であるベストの状態を求めがちで、患者さんにとって厳しいことを言いがちだなあと感じました。生活習慣病など、ともに生きていく性質を持つ疾患の治療の目標は患者さんの価値観を取り入れる必要があります。それを叶えるための治療方針。こちらのレールに乗せるだけでは治療がかなわないことがあります。

 そもそも、治る疾患ではないという認識付から始める必要があるのでしょう。

 

 

 

言えなくなるまでぶん殴れてろのって乱暴なのでは

 「気持ち悪いと言えなくなるまでポリコレ棒で殴られててください」という記事を見ました。

 

 この記事を読んで、この記事を書いた方もLGBTの人を気持ち悪いと言っている人と変わらんのではないかと感じ、途中で読むのを止めてしまいました。自分の考えていること、思っていることが言えない立場の人が味わい続けてきた苦悩はわかりますし、それと同じ体験をすれば相手の気持がわかるのではないか、という意味でポリコレ棒で叩かれろと言っているのだろうという意図はわかります。

 

 でも、それって、「お前らは何も言わず、私の言うことを聞いていればいいんだ!服従しろ!」と言っている点では同じではないでしょうか。ここは苦しいのを我慢して、

 

 「自分の趣味趣向思想信条が存在するのを認めてほしければ、現に存在する趣味嗜好思想信条が存在するのを認めましょう。

 あなたがそのようにおっしゃるのはあなたの考えで、そうではない人もいます。ご自身の言動に対する批判が聞こえてくるのは受け入れましょう。対応するかどうかもあなたの自由です。

 ただ、憎悪嫌悪の感情を出す時は注意しましょう。世の中には清濁併せ呑むことができない人、あなたが憎悪嫌悪する対象を好む人がいることがいることに配慮しましょう。

 かといって、憎悪嫌悪の感情を中に貯め込むのは心身ともにつらいと思うので。誰も見ていない聞いていない場所か。その感情を共有できる人だけのクローズな場所で言えばいいと思いますし、ぞれぞれ住み分けることがお互いのためではないでしょうか。」

 

 といった趣旨のことを言えばいいのではないでしょうか。

 

 中にはナチュラルに失礼な言動をする人がいます。それが相手によっては失礼に当たることを知らないのです。知っていても忘れてしまうのです。こういう人は、何度注意しても「なぜ失礼なのか」わからないのです。その時時の気分で生きているのかもしれません。

 

  自分が弾圧されてきたことを、同じ目に合わせで弾圧するのでは、報復合戦になってしまい、他の人が「この話題をすると怖い人が絡んでくる。面倒事になるからこの話題はしない」という形での言論弾圧になるのではないでしょうか、

 このような結果になっても、自分にとって不快なことが消えればいいという認識の人は、まさに「不機嫌で人を動かす」という、クレーマーと同じ思考であり、他人(主に反対でも賛成でもない人)まで押さえつけることになります。不機嫌をちらつかせて他人を動かしてはいけないし、この手段を使う人の言うことを聞いてはいけないと思います。(ただ、この方法でしか人を動かせない中高年以上はどうすればいいのか、最初はアナウンスして、それでも改善しないなら孤立させてしまうのが私の今の所の答えです。結果を自分で引き受けるのですから)

  個人的には、「清濁併せ呑む」事ができない人は、自分が安心して暮らせる空間の中でひっそり暮らすのがお互いにとって幸せだと思います。Twitterなどでみた記事では、「憎悪嫌悪の感情を持つ自分、その感情そのものを受け入れることが出来ない」性格のようです。いい意味で言えばピュアなのです。世の中はいろいろな人がいるので、それらの感情を持たずに生きることは難しいです。憎悪、嫌悪の感情をうまく昇華させることができる技術を持つことが解決策に思います。

 言葉にできなくて悶々として意味もなく怒っているように見える人

 言葉にできるけど、そのような感情を持つ自分が許せなくて、その対象に怒りをぶつける人(怒らせた相手が悪いと、理屈をつけて排除しようとするパターンです。知能の高い人に多いように見受けます)

 言葉に出来ない人は言葉に

 言葉にできる人は怒りという感情を消すという一人でできることや、他人と発散できるようにするなど

 自分にあった方法はあると思うので、探してはどうでしょうか。(無責任な言い方のように思えますが、これ以上の方法は思い浮かびません)

 

 

 

 

安倍首相はモンスターだったのか

 このタイトルを読んで、誤解を招きそうな気もする。

 しかし、安倍首相を快く思わない人たち(以下「反安倍の人」と呼ぶ)から見れば、彼は悪の大魔王かモンスターなのかもしれない。どうもここ数日でそのような疑念が私の中で深まりつつある。

 

 佐川氏が証人喚問で言ったこと

 1.自分自身が文書書き換えの指示をしたかどうかは、刑事訴追される可能性があるので言えない。

 2.安倍首相をはじめ政治家や首相夫人の関与は一切なかった。

 

 この 1,2がまったく別の事柄であることを反安倍の人は受け入れることが出来ないみたいなのですよ。

安倍首相はじめ政治家の関与があったかどうかは、自分が刑事訴追をされるかもしれないので言えない 

 と認識しているようなのです。

 

 え?

 安倍首相をかばって自ら偽証罪に問われようとしている???

 安倍首相が関与していないと言わないと、首相が警察に指示をして佐川氏を逮捕するように仕向けると思っている???

 

 偽証罪で捕まって刑期を終えた後に安倍首相から何らかの利益を与えられるに違いないと思ってる??? 

→そんな、捕まった人に利益供与するほどあからさまなことはしないでしょう。

 

 もしくは、首相が警察に支持をして自分の意に沿わない人を逮捕するって、そんなんバレたら辞職どころの騒ぎじゃないでしょ。それこそ民主主義は死んだって話になる。

 

 佐川氏が首相をかばっても何の利益もないのです。

 

 そんな想像がなされるぐらい、反安倍の人にとっては憎むべき存在のようです。

 

 嫌いな人による政治が行われるのが嫌

 たぶん、この程度のことなんだろうと思います。あまりにも嫌いだから、普段は知的で冷静なはずの人が、あれこれ理屈をつけて安倍首相を批判する。もしかしたら、「自分は頭が良くて冷静と言われている。そういうイメージの自分にいい感情を持っている。そんな自分が感情的になるはずなんてない。もしくは、そんな自分を冷静でいられなくする安倍首相はモンスターに違いない」と思っているのかもしれない。

 全共闘世代の人だと、「巨大なる悪に立ち向かう勇敢な自分」という構図でしかものを考えられないのかもしれない。若い世代だと、学校や職場で出会った「知的とされる人」に心酔をした結果、自分が尊敬をする人が批判する人を盲目的に批判しているのかもしれない。

 そういった人たちの、自分は感情的にならない人間だという思い込みからくる、理論武装しきれない安倍首相批判の文を見て、「あーこの人たち、知識>>>感情と思ってるんだ。感情的になることをばかにしているんだ」とか、「もしかして、負の感情を放出させるの苦手?」と私は思ってしまう。

 

 追記

 反安倍の人は、本当に「負の感情を持つこと」「負の感情を放出させること」が苦手でなのでしょう。「清濁併せ呑む」という感覚がないんじゃないかと思う。知的なものに囲まれ、自由を勝ち取る。そういう人生だった。

 しかし、実際の世の中はそうではない。

 

 知的なものに一切関心を持たず、先の見通しを立てるのも苦手な人たちがたくさんいる。その場の感情をすっきりさせることで精一杯の暮らしをしている人がたくさんいる。

 子供の頃は、周囲の大人によって「汚いもの」を排除される。そして、他者理解のための別の価値観として清濁併せ呑む感覚を教える。清濁併せ呑むという感覚はある程度成長してからでないと理解できない。そのため、最初はわかりやすい「きれいなもの」を教える。その過程で、親が清濁併せ呑む感覚を教えるのが面倒で清い方だけを教えたという可能性もある。結果として潔癖な性格になるのではないかと推測する。

 

 ということは

 知的とされる人たちの内面をこれだけ揺るがしてしまう安倍首相ってほんまにモンスターなのかもしれない。

  

 

 

 

運転免許証更新に警察署に行ってきた


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はい、もはや身分証明証としての役割しか果たしていない運転免許証の更新を行ってきました。

 

 今回は、警察署で更新をしました。

<理由>

 運転免許試験場が家から微妙に遠い上に交通機関も混んでいる

 免許試験場が混んでいる

 

というわけで、行ってきました警察署。自宅の管轄でもない、自分の用事に都合のいい警察署。書類を書いて、県の証紙を購入。なぜ現金じゃないのか。面倒じゃないか。

 

運転に支障のない視力かどうかの視力検査を行い、講習会場へ。なんと、警察署とは全く別の建物に行くことになる。

 講習会場で交通安全協会のおっちゃんに免許証の郵送交付について説明を受ける。郵便書留で届くので、配達から1周間以内に受け取らないと返送されることになるので、家族でもいいので受け取ってと言われる。

 郵送の手続きをした後、講習会場に入る。なんと、6畳程度の小さな部屋。講師の目の届かないところに隠れることは困難。椅子にはご丁寧にも円座が敷いてある。優良運転者講習と普通講習を同時に行う。前半は共通の講習。前半30分終了後、優良運転者講習受講者は会場から出る。私は優良運転者だったので30分で出ていった。普通運転者講習を受けるのは一人。つまり、残り30分はマンツーマン。講師も受講者もやりにくいのではないか。優良運転者講習が普通運転者講習に、普通運転者講習が違反者講習のように思えるほど中身の濃い講習になります。

 この際、交通安全知識についてしっかり勉強したい方には警察署での更新(郵送交付)がおすすめです(笑)

 それにしても、土曜日と祝日に免許を更新していないのはどうだろうか。免許更新のために有給を削られるのはどうなんだろう。休みが取れる環境だと、不平等とおもう人がいるかも知れない。